2003年9月から家族(僕と妻、そして5歳の娘)と共にフィンランドはユヴァスキュラ市に滞在しています。 僕達家族にとってほとんどはじめての海外生活になるので、それはもう不安と驚きの連続です。 なんせ家族全員フィンランド語は全然ダメ、英語もいわゆる中学英語止まりという有様。 それでも今現在にいたるまでなんとか、というよりはむしろかなり快適に生活を送っています。
何故か? それはここがフィンランドだからです。
contents僕達は如何にして最初の1カ月を乗り切ったか
ユヴァスキュラ版画センターのこと
僕、石山直司はなぜフィンランドにいるのか 2003年記す
フィンランドでの生活と今思うこと (2008年10月発行「日本版画協会会報No.142 海外からの声」より転載加筆)
僕達は如何にして最初の一ヶ月を乗り切ったか
ロストバゲージは怖くない?
去年下見のために初めてヘルシンキ・ヴァンター空港に降り立ったとき、いきなりロストバゲージの洗礼を受けました。 空港の預け荷物が出てくる例のベルトコンベアのところでいくら待っても自分のスーツケースが出てこないのです。 直行便ではなかったので少し気にはしていたものの、しょっぱなからナンテコッタと思いながら係りのひとに訴え、 スーツケースの形状や色などを伝えました。
係りの対応は実に親切なものに思えました。 話では通常1日で見つかるとのこと(あくまでも通常)、見つかった時点でホテルまで届けてくれることを知りました。 また、荷物が見つかるまでの間、あるいは最悪荷物が出てこない(!)ときのために小型のトラベルバッグのようなものを もらえました。中にはTシャツ、パンツ、洗面用具、コンドームなど必要最低限のセットが入っています。 これで10日間どうやってすごそうか、かなり真剣に考えました。
実際にはその日の夕方にホテルにトランクが届けられました。
日本人観光客に安易についていってはいけない。
家族を連れての今回、2回目のヴァンターでしたが、 相変わらず飛行機を降りたとたんにどこに行ったらいいのかわからなくなってしまいました。 機内預け荷物を取りに行きたかったので、たまたま同乗していた日本人観光客の集団を見つけて 一緒に行けばなんとかなるだろうと付いて行ってみたのです。 ところが機内預け手荷物をとりに行く前に解散してしまうではないですか(おそらく彼らは乗り継ぎの客だったと思うのですが)。 あれ、と思ってあわてて手荷物マークの案内に沿って階下におりて行きました。 たしかにそこは手荷物受け取り場所だったのですが、自分達の乗ってきた便の表示がありません。 係りのひとに聞いてみると、やはり場所が間違っていたらしく、裏手の通路を通って正しい場所まで先導してくれました。
相変わらず係りの対応は好ましいものでした。
ミネラルウォーターの見分け方。
フィンランドでは炭酸入りと炭酸なしのミネラルウォーターが売られています。 ラベルはフィンランド語表示だし店員さんに聞くのもちょっと勇気がいる、そんなときはボトルを握れば一発でわかります。 つまり握ってぱんぱんに硬いのが炭酸入り、ぺこぺこ柔らかければ炭酸なし。簡単でしょ。
ちなみにフィンランドの水はとてもおいしく、 外国から輸入するミネラルウォーターよりもフィンランドの水道水のほうがきれいだという人もいるほどです。 うん、そうかもしれない。それでもやたらとミネラルウォーターが売られているのはなぜ?
おしゃれだと思っているからとその人は言っています。
横断歩道はまず左を見て右を見る。そしてもう一度左を見てから渡りましょう。
ようするに車が右側通行なのです。何度ひかれそうになったことか。
米はおかゆ用のものが日本米に近い。
フィンランド人はこれを牛乳などで煮てポーリッジにして食べるようで、袋にもそのような写真が載ってます。 袋の透明な部分から見える米の形状は日本米を少し小さくした感じで、我が家ではこれをなべで炊いて食べています。 そりゃあカリフォルニア米なんかを買ってきて食べるほうがおいしいでしょうが、日常的にはこれで十分。
いくら丼なんかにするともう最高。
ズボンは日本で買っていこう。
なんでかって?こちらの人は基本的にすそあげする必要がないようなので。 それでも僕はすでにGパンを一本買いました。どうってことなかったさ。ちなみにすそ上げ料金は8ユーロでした。
ユヴァスキュラ版画センターのこと
僕が現在作品を制作しているのはユヴァスキュラ市美術館所属のユヴァスキュラ版画センター (Jyvaskyla Centre for Printmaking)です。 フィンランド国内で版画工房をそなえたアーティストインレジデンスの施設としては最大級のもので、 そのプロフェッショナルかつ自由な雰囲気が僕はとても気に入っています。 先日、版画センター担当の学芸員ユッカ・パルタネン氏から工房の設立からの経緯をくわしく聞く機会があったので、 ここに紹介してみます。
Centre for Printmakingが入っている建物の前身はハルモニアという工場で、 そこで作られていたのはハルモニウムというオルガンに似た楽器でした。 ハルモニアのオーナーはアアペリ・ハロネン。アアペリの弟で画家のアンティ・ハロネンがハルモニアの建物をデザインしました。
ハロネン一族は大勢の芸術家を輩出したことで知られていて、 なかでもペッカ・ハロネンはフィンランド美術史の中でも重要な位置をしめる画家でした。 彼のトゥースラにあるアトリエもアンティのデザインです。
ハルモニアの一階はハルモニウム工場、2階はアパートになっていて、アンティの他画家や彫刻家が多く暮らしていたそうです。 芸術家を擁護するアアペリの影響もあってハルモニアは一種の芸術家の総本山として機能していたのです。 その後、工場が閉鎖になってからの約20年間、ハルモニアは2階を一般向けのアパートとして、 一階はガレージとして利用されていました。
さて、1975年に始まった国際版画公募展グラフィカ・クリエイティヴァ(現在も続行中)をきっかけとして ユヴァスキュラを版画の町にしようという動きが起こったそうです。 それを受けて、78年に当時市営だったアルバアアルト美術館所属のCentre for Printmakingが 現在の市内のインフォメーションのある小さな建物に設立されました。 その当時はまだ版画作家というものがいなくて(フィンランドだけではなく、世界的にまだ版画が芸術の分野として 認知されていなかった)、主に画家や彫刻家が複製版画を制作するのに使われていたそうです。
その後80年代初め、市が歴史的建造物を保護する目的でハルモニアを購入、修繕し、そこにcentre for printmakingを移転しました。 この時点でようやく、ギャラリーやゲストルームを備え、地元および海外の版画作家の需要に対応できる現在の形が整いました。 当時、版画専門の作家に対応できる工房としてはフィンランドで唯一のものだったそうです。 市営から財団の独自運営になったアルバルアアルト美術館にかわり、 5年前に設立されたユヴァスキュラ市美術館の所属になって現在に至ります。
作家にとって作品を制作する「場」というのは非常に重要です。 ここユヴァスキュラの版画工房では学芸員のユッカさんと作家達がとてもよい関係にあって、適度な緊張感と自由な雰囲気があります。 それは作家にとっては非常に稀で幸せな環境だといえるでしょう。
実は2年前に市がcentre for printmakingを他の建物に移転する計画があったのですが、 この工房に関わった世界中の多くの作家がそれを聞きつけ、 反対の手紙が市に殺到し計画を中止せざるを得なくなったという経緯があります。
ユヴァスキュラ市美術館 http://www.jkl.fi/kulttuuri/taidemuseo/index.htm
Centre for Printmaking http://www.jkl.fi/kulttuuri/taidemuseo/grafiikkakeskus/index.htm
僕、石山直司はなぜフィンランドにいるのか 2003年記す
フィンランドに何しに行ってんの?
文化庁の在外研修員としてフィンランドでノン・トクシック技法を中心に版画の研究、制作を進めています。何でフィンランドに行こうと思ったの?
そもそもフィンランドに興味を持ったきっかけはなんだったのでしょう。実はあまり覚えていないのです。 一時期北欧の生活様式が雑誌などにおしゃれに取り上げられていたことがあったことは覚えています。 その中でフィンランドは比較的地味だけどごく自然なスタイルに見えたことも覚えています。 そんな生活の中で作品がつくれたらいいだろうな、なんて甘い考えで文化庁の応募を決めたのが2000年のことでした。 (当然のようにその年の選考には落ちたのですが。)行く前はフィンランドについて何か知ってたの?
いいえ、ほとんど。
在外研修員に応募するためには自分で受け入れ機関を見つけなければなりません。 そのために数少ない(それでもかなり有益な)フィンランドの情報を片っ端から集めてみたのですが、 肝心なフィンランドの版画を取り巻く状況がなかなかわかりません。 そこで2002年6月に思い切ってフィンランドに単身渡ったのです。
当時なんとかコンタクトをとれていたLAHTI版画家協会にとりあえず顔をだしたところ、 そこの会員でもあるアンティ・サロカンネルさんが顔のきく人で フィンランド版画家協会、アラビア版画工房、そしてユヴァスキュラ版画工房を紹介してくれたのです。 10日余りの滞在でしたが、様々な人たちに出会うことができ、 ユヴァスキュラ版画工房に受け入れ機関となってもらうことができました。どうやって連絡をとったの?
E-MAILで。
僕の英語力ではとてもじゃないけど電話で交渉する自身はありませんでした。 実は一度だけ、アパートの契約をお願いするときに電話をかけたのですが、なぜか大笑いされました(笑うことないじゃん)。 一応用件は伝わったようですが。住む場所はどっやってみつけたの?
受け入れ保証人になってもらったユヴァスキュラ版画工房の主任学芸員ユッカ・パルタネンさんが骨をおってくれました。 最初は新聞の広告欄の賃貸情報で調べてもらっていたのですが、ちょうど大学の新年度の始まる時期だったので、 ほとんど学生に先をこされてしまったのです。 そこで、契約の委任状を送って現地の不動産屋さんで探してもらいました。 幸い工房から4~5㎞のところで相場からはかなり安めの(月400ユーロ)物件を手に入れることができました。 経費としては不動産屋に手数料として家賃1ヶ月分、大家さんに保証金としてやはり1ヶ月分(解約時にもどってくる)。 敷金、礼金はこちらでは通常必要ないようです。ちなみに部屋は50㎡、2部屋に台所、トイレつきバスルーム、倉庫、 バルコニー。天井は日本に比べるとかなり高いです。
暖房は例のパイプにお湯が流れて温まるやつで、室温によって自動で作動するらしいのですが、 さすがに部屋の断熱はしっかりしていて(窓は3重だしドアも2重)外気温が氷点下を少々下回ったくらいでは作動しません。 つまり、それでも部屋の中は暖かってことです。 さらにアパートの地階には共同の設備があります (サウナ、洗濯場所、シーツやカーペットの乾燥場所、自転車置き場、トレーニングルーム(!)共同倉庫など)。なんで行ったの?
もちろん飛行機で。ビザの取得はどうしたの?
大使館に問い合わせましょう。 ちなみに僕が始めて大使館の担当の方に問い合わせたときはいきなり「フィンランドにビザはありません。在留許可です。」 といわれ出鼻をくじかれました。 在留許可願いについて問い合わせしたいのですが、とはじめるとよいでしょう。改めて、なんでフィンランドなの?
フィンランドの国、人、美術、版画に対する興味は知れば知るほど膨らんできます。 そしてそうしたことが自分と自分の作品にとって重要な影響を及ぼすのではないかという期待も徐々に確信に変わってくる気がします。 ただ、それが何故なのか今でもよくわからないのです。 もしその理由がはっきりとわかっていたなら、おそらくフィンランドに来る必要はなかったと思うのです。
改めて、なんでフィンランドなのって?それを知りたいから今、フィンランドにいるんです。
フィンランドでの生活と今思うこと
文化庁在外派遣員としてフィンランドを訪れたのが2003年、その後個人として滞在を続けて約5年になります。今の私の日常はこんな感じです。
週日は毎日自転車で工房に向かいます。工房は自宅から約15分。雨の日はバス、冬は40分かけて歩いていきます。 工房はユヴァスキュラ市美術館付属の版画センター内にあるもので、私は去年の暮れから美術館の選任スタッフとして工房の技術員として働いています。 仕事は工房の管理のほか美術館の雑務や展覧会の設置、記録などで、実はこの年で初就職になります。一日6時間という通常よりも短めの労働時間を設定してもらっているので、 8時に仕事を始めると昼30分はさんで2時半には終わります。外国人としては常に美術とかかわれる場にいれることがとてもありがたいですし、 技術員としての技量を維持するという名目で自分の判断で仕事時間中でも自分の制作をすることが認められているので、恵まれた環境にあるといえるでしょう。 契約は年間の労働時間が決まっていて、多く働いても給料は増えませんが、その分他の日の労働時間を少なく出来ます。 これはフィンランドでは一般的なシステムで、休暇や自分のプライベートな時間を確保しやすいので助かります。
就業時間のあとはだいたい6時ころまで工房で制作してから帰宅するのが普通です。毎週水曜日の夕方は市の成人学校でドローイングの講座を受け持っています。 この仕事は3年前に飛び込みで得たものです。あとは単発で版画の講座を受け持ったり作品を売るなどして今の生活は成り立っています。全体の収入としては家族3人が基本的な生活を普通に出来る程度です。
夕方家に帰ってからは夕食、入浴など普通の日本の家庭と同じです。生活の様式も我が家はすべて日本式です。 アパートは約60㎡で家賃は530ユーロ(水、電気別)で、フィンランドに来る前に済んでいた名古屋公郊外の相場に近いでしょうか。娘も大きくなってきてすこし手狭になってきたので、近々引越しを計画中です。
(10月に引越しが実現しました。今度は今までよりも広く、住居部分が90㎡、もちろん家賃も約800ユーロになりました。住居部分と書いたのは実はこれ市の管理するアーティスト用のアパートで、アトリエがついているので、 全体としては相場よりも少し割安です。工房までは自転車で25分かかるようになりましたが、娘の学校には近く、親しい友達の家も近所になりました。)
家庭持ちである以上、家族がフィンランドでの生活を気に入ってくれたことはとても幸運なことで、もしそうでなければ私一人の都合だけでここに居ることは事実上不可能だったと思います。 娘はユヴァスキュラ市内にある国立の小学校に通っていてこの秋から5年生、まるでフィンランド人のように育っています。妻はもともと歌をやっていたので、地元の合唱団に所属して市で開催するオペラに参加したりしています。 去年から子供の世話や福祉活動を行う資格を取る学校に通っていて、ゆくゆくは子供に音楽を教える仕事を持ちたいとがんばっています。
私は現在フィンランド版画家協会の会員でもあります。会員数352名のこの協会はプロの版画家の組合といった性格が強く、会員の審査は毎年経歴から換算されるポイントと提出作品を基に評議委員が行います。 この際提出できる作品は10から20点と多く、実質的な作品の質が当然重要視され、ポイントは作家としての活動の安定度を測る目安とされます。 協会としての定期的な展覧会は行いませんが、フィンランドの首都ヘルシンキに事務所をかねた画廊(ガレリアG)を持ち、会員はそこでの展覧会の申請をすることができます。
私も去年そこで個展を開きました。フィンランドのファインアート系の画廊で個展をする場合、画廊による作家の選抜やプロモート、作品売却時のマージンの発生など日本で言う企画画廊と同様の形になりますが、 画廊使用料(ガレリアGでは3週間で2000ユーロ程度)と経費(額装、搬入費など)は作家が負担するのが普通です。 これに対してフィンランドには作家の助成を行う団体がいくつかあり、作家はそこに制作費も含めた費用を申請することができるというしくみです。 助成は原則として展覧会の開催がきまってからはじめて申請できるもので、また申請すれば必ず受けられるというものでもありません。 私も個展に向けて助成をフィンランド文化財団に申請して、幸い制作費、展覧会諸経費を合わせて6000ユーロの助成をうけることができました。 もし受けられなければすべて自分持ちで、結果的な収支でも展覧会諸経費はなんとか取り戻せた程度だったのでかなり厳しいものになっていたと思います。
助成にはまた、作家が生活のための仕事を一定期間休んで(数ヶ月から最大3年)制作に没頭するためのものもあります。一時的な助けにはなるようです。 このような作家活動を日常的に支援する助成制度は日本ではあまり馴染みのないものだと思いますが、公の助成を受けることがひとつの実績として捉えられていて、略歴にも大きく記載する習慣があるようです。 こういった制度についての私の実感としては、作家をその活動内容で区別する至極まっとうな仕組みにも思えますし、また同時に恵まれた環境を得ている作家がすべて優れているわけではないという現実も感じることがあります。
このように多少のシステムの違いはありますが、環境そのものは日本を含めた他の多くの国とおそらく似たようなものだと思います。 それでもここに来てから私自身に変化がなかったわけではありません。環境は同じでも自分のおかれる立場が日本にいたときとは少し違ってくるからです。ここフィンランドでは私は外国人になるのです。
私はフィンランドに住むこともフィンランド人の在り方もとても気に入っていますが、フィンランド人のようになりたいと思っているわけではありません。あくまでもフィンランドに住む日本人でいたいと考えています。 外国人としての立場からフィンランド人社会に入っていこうとするスタンスが自分にしっくりくるのです。彼らとどの部分で分かり合えるかを探ることは、時にまるで鏡を見ているようなものだと感じることがあります。 なぜか自分自身の内面と直面してしまうのです。それも直接自分の内面を見ようとするよりももっと楽に自分が何を感じているのかを見ることができるような気がします一歩引いた位置から、そう、まるで外国人としてみるように。
実際問題として外国人という立場は生活に有利に働く場合もあり、不利に働く場合もあります。 作家として活動するうえでは、単純に目立つという意味で有利に働くことが多いように感じることもありますが、それで勘違いしやすいという危険な面もあり、全体でいうとプラスマイナスゼロではないかと思います。 でも、立場が変わったせいで見える景色が以前と少し違うということは今の自分にとってとても重要なことのような気がしています。
今までは見えなかったものに気づいていくということは裏を返せば今までは見えていたものを見失ってしまうことでもあるのかもしれません。そのせいか時々日本を外国のように感じてしまうこともあります。 でも今はとにかく自分の置かれた状況から生まれる心の揺れのようなものをなんとか作品として表現しようとしています。その作品がありのままの等身大の自分を教えてくれるような気がするのです。 本来それが自分にとって作品を作る理由だったのでは、と改めて思っています。
等身大の自分は思っていたほど大きなものでは全然ないな、とようやく気づき始め、でもそこに少し真実が見えているような気もするのです。
(2008年10月発行「日本版画協会会報No.142 海外からの声」より転載加筆)